つれづれ memo & feel

旅の記録と日常の出来事をメモする

「もの」がその気を後押しする

最近ご無沙汰しているブログ「レジデント初期研修用資料」を久しぶりに覗いてみた。そのエントリー【「もの」と「情報」の界面】に、なるほどと大いに納得した。

ウィルスの感染症ならば、暖かくして家で休んでいることが、本人のためにも、まわりの人のためにも一番望ましいのだけれど、たいていの人は、守れない。
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白衣を着た人間から、「5日間これを食べて下さい」なんて指示されて、5日分の食料と水とを押しつけられたら、たぶんそれなりの割合の人が、そのとおりに行動する気がする。

市販の風邪薬は、熱や鼻水などの症状を抑えるだけで、実際は人の持つ自然治癒能力にまかせているのだと聞いたことがある。医者に行くのは、風邪と言うお墨付きを貰うために行くようなことかもしれない。それがあると、家族にも、会社にたいしても堂々と休むこことが出来る。

それが単なるレトルトのおかゆであっても、「それを自宅で食べきることが治療である」と宣言されて、パックに「治療用」なんて書かれたおかゆは、たぶんそれをもらった人に「病人らしさ」という振る舞いを強制して、その人の外出確率を下げる。

時たま、映画やドラマなどに出てくる名医?がこのような「思い込み」の手を使う。
「病は気から」というが、「その気で治す」ことも出来るのでしょう。


イワシの頭も信心から」というような言葉も連想で出てくる。

禁煙用のニコチンガムや、ニコチンパッチは、あれがガムであり、パッチの形をしていることが、たぶん欠点になっていて、「喫煙する」という、たばこ本来の動作を置換できていない。


たとえば、薬理的な効果をもたない「禁煙パイポ」を、病院でとりあえず200本ぐらい、黙って処方箋を切って、相手に押しつけてしまうと、その人は、その200本を消費するまで、次のたばこを買いづらいような気がする。

経験から、その通りなようである。


昔むかしに禁煙をしたことがあるが、ガムやパッチは使わなかった、
空いている手に扇子を持たせて、タバコを吸わない手持ち無沙汰を無くした。
冬場でもパタパタやっていた。
このような「動作を置換」することが、禁煙の助走期間に役立ったと思っている。