つれづれ memo & feel

旅の記録と日常の出来事をメモする

危機感駆動型から希望駆動型へ

『ラーメン屋vs.マクドナルド』(竹中正治)という本が面白く 、一気に読み終えた。柔らかいタイトルから想像する以上に内容の濃いもので、経済を中心に日米の文化を比べみるエッセイで組み立てられている。その幅はひろく、宗教的価値やマンガのヒーロー論までもカバーする。読みやすく、なるほどと腑に落ちるところが随所にあった。
ラーメン屋vs.マクドナルド―エコノミストが読み解く日米の深層 (新潮新書)


特に面白く読み、強く納得したものが、日米の行動原理の違いである。

・・アメリカ人は相手のパフォーマンスを評する際に、ポシティブな表現に気前が良く(generous)、日本人は禁欲的(stoic)な傾向が強い。その反対に相手にネガティブな表現はアメリカ人はあまり使わない。最悪でも「OK」であり、それ以下の表現は相手と喧嘩するつもりでもなければ普通は使わないようだ。しかし日本人はネガティブな表現についてはかなり気軽に使う。先生が勉強が足りない受験生に「危機感が足りないぞ、おまえ!」なんて言うのは常套句だ。 表現に関する文化的な違いと言ってしまえばそれまでであるが、どうも根がもっと深いのではないだろうか?

これは、子供に対する親の態度が最初に思い起こされる。アメリカの家庭で子供を誉めるシーンは、テレビドラマなどもよく見られた。一方、日本では、「そうしないと困るよ」などと言う叱咤激励が基本である。学校の例でも、その他の場面でも、容易に事例を拾うことができる。

この違いを類型化してみよう。私の見るところ、日本人に多い類型は「危機感駆動型」なのである。「このままではお前はダメだ!」「危機だ!」と言われると強く反応して動くわけである。 一方、アメリカ人に多い類型は「希望駆動型」である。「すごいじゃないか!」「できるじゃないか!」と励まされると強く反応して動くのである。こうして考えると、日米の様々な違いが説明できる

なるほど、「危機感駆動型」と「希望駆動型」か、的確な表現だ。
ここまで読んでくると、なんとなく「希望駆動型」が良さそうだなと感じる。
それは、私自身の経験と反省からくるものや、茂木健一郎「褒めのアスリート」や、梅田望夫の言う「人を褒めろ」に共感しているからでもある。


そして、国において、企業もだろうが、追いつき追い越せの時代はそれで良かったが、トップグループに入ると危機感駆動型の限界があると言う。

 危機感駆動型の限界は「のどもと過ぎれば熱さを忘れる」ことにある。西欧列強が武力で植民地獲得競争をしていた幕末から明治、日本のほとんどの主要都市が空襲で焼け野原となった戦後なら、危機感をバネにした変革も頑張りも長期に持続するものとなりえた。ところが、なんだかんだ言っても豊かさを実現した今日では、不良債権問題と不況が終焉するや、大した改革もしていないうちに「改革疲れ」が語られ、変革機運は後退してしまった。財政赤字、年金不安、少子高齢化地球温暖化など、今日の諸問題は放置しておけばやがて大禍となろうが、何もしなくても今日明日の生活に困るものではない。こうした問題は危機感駆動型アプローチが対応し難いものなのだ。

新しい道を切り開いて行く時は、ビジョンが重要になる。方向を示さないことには、自信を持って歩むことはできないだろう。今の選挙でも「この危機をどう乗り越えるか」ばかりで、乗り越えた後の国家像はない。「Yes, we can.」と同調できるイメージを提示して引っ張ることはないようだ。


そのビジョンも「右肩上がり」で良かった時代とは違うものが要求されるフェーズに入ったと感じる。サステナブル、つまり持続可能な社会という言葉も聞かれるように、化石エネルギーの枯渇、地球温暖化、人口問題などなどを考えても新しい社会ビジョンが必要になってくるだろう。