つれづれ memo & feel

旅の記録と日常の出来事をメモする

生きることの意味を見つめる

茂木健一郎のブログ(クオリア日記)や講演録(MP3)は、よく読んだり聴いたりしているが、著書はあまり読んでいない。本人のブログに「生きることの意味を見つめた随想集です」とあったので、「今、ここからすべての場所へ」を読んでみた。

今、ここからすべての場所へ

今、ここからすべての場所へ



いつもは、人に対する真摯な態度やポジティブな考え方にいつも感心させられ、元気をもらっている。様々なエッセイを集めたこの本を読んで、物事に対する考えの深さに改めて驚かされた。


読みながら付箋をつけるのがクセなのだが、その部分を集めて読後のメモとしてこのエントリーにしてみた。引用の<>内は、それぞれのエッセイのタイトルである。

<欠乏と豊饒のコントラストを魂の糧として>
 からからと乾いた土地の生活が快適であるためには、水が自由に使える必要がある。あと一週間、これだけの水でやりくりしなければ、とびくびくしていては、快適どころではない。水道をひねれば水が出る。周囲が草もほとんど生えていないほどの乾燥地帯なのに、市街地だけは芝生が生い茂っている。アメリカの乾燥地帯にある都市にしばしばよく見られる光景だが、「欠乏の豊饒」にこそ、都市の快適さの基本デザインがある。

<人間をつくり出すもの>
 ユニークな存在として他の何者とも違うパーソナリティを持ち、そこにあることを強烈に感じるもの。それが、表象的に解剖した時の「人間」である。・・
 人は人に生まれるのではない。人になるのである。

<情熱と受難をもろともに>
 時の流れ自体は押しとどめることができない。前のめりに生きるしかない。私たちは、基本的に楽観的である。そうでなくてはやっていけない。脳の中には「楽観回路」とでもいうべきものがあり、これがきちんと働かないと私たちは「鬱」の状態に陥ってしまう。

<多様性賛歌>
・・言語は簡単に私たちをスモール・ワールドに閉じこめてしまう。そんな時、解毒剤となるのは、自分自身の使う言語を相対化する視点である。
 時折、日本語のメディアを離れてみることがある。気付きにくいことだが、日本語で書かれた時点で、読書がほぼ自動的に日本人に限られる。だから、どうしても内輪向けの話になる。たとえば、日本を称揚し、他国を批判するような論調は、典型的な「内弁慶」になってしまう。

<信じることと生きること>
私は、全力で信じ、全身で愛し、そして思い切り裏切られたいと思う。希望に満ちて前に進み、思いこみが外れて失望し。後悔する。そのような精神の混迷の中にこそ、活きることの真実があるはずである。

<聖なるものについて>
 過去は、もう二度と戻ってはこない。事実においてもはや動かし難く、固まってしまっているもの。しかし、本当は、過去は育てることができる。何回もその現場に立ち返ることで、新たな意味を見いだすことができる。
・・・
 肝心なのは、思い出すということである。過去に繰り返し立ち返るということである。過去を見る射程が長いほど遠い未来を見晴らすことができる。

<人生の一回性に感情は燃え上がり>
 科学が終わるところに、感情が始まる
 そもそも、感情とは何か?感情とは、決して定型的で原始的な反応などではなく、私たち人間にとってこれ以上なく大切な直感、判断、創造性といった脳の働きの基底にあるものという見方が、最近の脳科学の研究から浮上している。
 感情は、生きていく上で避けることのできない不確実性に対する適応戦略である。これが、現代の脳科学における新しい感情感である。たとえば、「不安」は将来がどうなるかわからないという不確実性にダイレクトに触発される感情であるし、一見その反対を志向した心の働きであると思われる「希望」もまた、将来がどうなるかわからないという不確実性を背景にしている。

<ほんの小さなことの中に>
 他人との関わり合いにおいて様々な複雑で豊かなやりとりを行い、その繊細な機微の中で、自分自身の、他人の、そして社会全体の「幸福」を育むべく心を砕く。そのような人間のあり方は、ともすれば孔子の描いた「聖人君子」の領域にのみ属することであり、現実の人間のあり方からかけ離れた理想論のようにも響く。しかし、関係性の上に展開する幸福の複雑なダイナミクスを直視し、その豊かな成長を図ることは、実際には「楕円関数」や「ブール代数」の計算を行うのと同じような意味で高度な知性の働きだということができるのである。
 ・・・
 むろん、利他性は純然たる善意として進化してきたのではない。チャールズ・ダーウィンの進化論は、それぞれの生物が時には他に犠牲を強いても自分たちの遺伝子の拡大を図るという冷酷きまわりないこの世のありさまを映し出す。同一種内においても同じこと。自分の遺伝子をできるだけ残そうという利己的な欲望が出発点となる。その利己性が他者との関係性において調整され、一見利他的に見える行動が生まれて来た。それが、進化生物学による道徳性の起源の説明である。
 現時点における科学的知見の教えることを信じれば、利他性自体は、利己性が関係性の中に投げ込まれた結果生まれて来た一つのあだ花のようなものなのかもしれない。そのあだ花の咲き乱れる草原にこそ、私たち人間の一筋縄ではいかない幸福のあり方がある。利己性の暴走も、利他性の強制も、どちらも私たち人間が投げ込まれているこの世界のリアリティの全体を反映していないのである。



しばらく間をおいて、また読んでみたい本である。
そのときは、どこに付箋を付けるのだろうか。