つれづれ memo & feel

旅の記録と日常の出来事をメモする

日本的な反応は倫理より世間体のほうが優先される

先日もそのプロモーションを見たように、バンクーバーパラリンピックが始まったようである。これに対してマスコミは、あまり反応しないようだ。


「オリンピック」と「マスコミ」の連想から、一週間ほど前に朝日新聞から切り抜いたメモを思い出した。先のオリンピックで国母選手の服装をめぐる日本的というかマスコミ的な騒ぎについて、斎藤環さん(精神科医)の「倫理より印象で世間は叩く」という投稿である。

大人が叱る前に世間が叩いてしまうこと。「公正」さよりも「気が済む」ことが重視されること。そして、倫理の代わりに品格が持ち出されるという問題が。
 品格の問題とは洗練された世間体のことであり、世間体とは要するに印象の問題だ。印象に基づくバッシングは倫理の問題を曖昧にする。・・・「自分流」を貫こうとした国母選手の服装と態度が悪として叩かれる。印象だけが重要だから「(態度は)人並みであれ、ただし(成績では)突出せよ」などと無茶なことが平気で言える。



学問でも芸術でもスポーツにおいても突出した人は、その時代において異端または異質であることが多い。例えば、アインシュタインも初期の頃は異端であった。音楽の分野では、ビートルズしかり、プレスリーも見た目だけで異様だと叩かれていた。それが時代を経ると、天才といわれるようになるのである。異端といわれた頃の彼らは、茂木健一郎が良く言う”アノマリー”とか”ホープフル・モンスター”の部類に入るのだろう。

国母選手よ、案ずるには及ばない。”みそぎ”さえ済んでしまえば、君が人気者になるのは確定的に明らかだ。なにしろ人々は「改心した不良キャラ」が大好きなのだ。



これも日本的な心理なのであろう。ただ、不祥事を起こした政治家が、頭を下げて謝り、みそぎさえ済めば許してしまうというところはいただけないと思う。


最近になって「日本的」とか「過剰反応」という言葉が頭の中に浮かび上がる。先日の津波警報についてもそういう言葉がちらついた。